パレスチナとイスラエル

  • パレスチナとイスラエルの歴史

  • 1. 古代ユダヤ教の成立(その1)
    1. 古代ユダヤ教の成立(その2)
    1. 古代ユダヤ教の成立(その3)
    2. ユダヤの歴史(その1)
    2. ユダヤの歴史(その2)
    3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その1)
    3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その2)
    3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その3)
    4. シオニズム運動(その1)
    4. シオニズム運動(その2)
    5. 対立の激化(その1)
    5. 対立の激化(その2)
    5. 対立の激化(その3)
    5. 対立の激化(その4)
    5. 対立の激化(その5)
    6. 対立から和平へ(その1)
    6. 対立から和平へ(その2)
    6. 対立から和平へ(その3)

    木曜日, 10月 05, 2006

    6. 対立から和平へ(その3)

    <<6. 対立から和平へ(その2)

    考えてみれば、シオニズム運動というものは、最初は本当に少数の人々の間でしか受け入れられなかった。イスラエル建国に向けた、シオニズムの動きは、少数の政治的シオニストとそれを外から利用しようとした者の力による作為的なものだったのではないだろうか。

    ユ ダヤ人一人ひとりの心には、当然ユダヤ人国家建立への思いはあったに違いない。実際彼らは世界各地で、差別や迫害を受け続けていたのだから。しかし、その 感情を思いとどまらせていたのは、現実問題、その行為自体がユダヤ教の教義を守った上での行為ではなかったことなのではないだろうか。

    とはいえ、イスラエル建国により、世界各地で迫害されてきた国を持たないユダヤ人の祖国というべきところができたわけである。

    先 に、シオニズムの動きは作為的と述べたが、これは単なるきっかけに過ぎない。本当に原動力となったのは、民族への一体感であろう。昔から強国の支配の中で も常に民族がひとつとなることを望み、その思いが、何千年を経た現在まで受け継がれてきたのだ。この思いこそが、イスラエル建国の最大の原動力だったに違 いない。

    未だ、多くの問題が残されている今後を考えると、彼らの本当の和平が訪れるのは、まだまだ先のことかもしれない。

    しかし、元を正せば、ユダヤ人もアラブ人のひとつの部族に帰するのだ。もし、この事実を強く認識すれば、宗教の相違はあれ、彼らが共に歩みだす日は、そう遠くはないと思うのだが。

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    6. 対立から和平へ(その2)

    <<6. 対立から和平へ(その1)

    こうしてみてくると、アラブ人とユダヤ人の対立を引き起こした最大の要因は、アラブ民族でありながら、パレスチナ人となったという事実であることが分かる。

    このときに、単なる宗教の相違による対立から、民族間の対立に変わったのである。

    また、もっと大きな目で見れば、シオニズム運動自体を、帝国主義の権力というものに委ねてしまったことこそが、このような悲しい出来事を引き起こしたもともとの原因だったのではないだろうか。権力に頼った強制的なイスラエル建国こそが、ユダヤ教の立場から見た「人の計画を盛って神の計画に変えようとした人間の傲慢な思い上がり」であり、?心的な態度だったのではないだろうか。対立による犠牲はその報いだったのかもしれない。

    6. 対立から和平へ(その3)>>

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    6. 対立から和平へ(その1)

    <<5. 対立の激化(その5)

    イスラエル建国の次の日、イスラエル建国を認めないアラブ諸国は、武力行使し、第一次中東戦争が発生した。それを皮切りに、さまざまな紛争が相次ぎ、イスラエル武装勢力に対しアラブ人もパレスチナ解放機構(PLO)を発足した。そして、1967年、1973年と第三、第四次中東戦争が起きた。。

    これまでの歴史を振り返ってみると、イスラエルとアラブ諸国の対立は更に発展すると思われたのだが、これから後は「終戦」へ向けて進んでいく。1988年12月13日には、アラファトPLO議長がジュネーブの国連総会で国家としてのイスラエルを承認し、和平会議の開催を訴えた。これこそが、長年敵対関係を続けてきた両者が、共存への第一歩を踏み出すと共に、「世界の火薬庫」と呼ばれた中東和平に突破口を開く歴史的節目であった。

    6. 対立から和平へ(その2)>>

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    5. 対立の激化(その5)

    <<5. 対立の激化(その4)

    イギリスは、このように、ある時はアラブよりの、またある時はユダヤよりの政策を行うことで、アラブ諸国とユダヤ人を対立させ、その均衡を保ちながら、自らがパレスチナ一帯を支配しようとしていたのかもしれない。

    1946年10月4日、今度は、米政府が公式にユダヤ人国家建国を承認した、ヨーム・キップール宣言を採択した。

    これに対し、パレスチナ現地では、アラブ諸国がイギリスの支持を期待しながら義勇軍を結成していた。こうしてますます深刻化した対立で、しかも今度はアメリカまで介入してきたことで、イギリスにはもう問題の解決は不可能であった。

    ついには問題解決は、国連の手に委ねられた。それに対応して国連は、パレスチナ特別委員会(UNSCOP)を設置し、1947年11月29日の国連のパレスチナ分割決議で、次のように定められた。

    「パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割し、それぞれを独立させ、エルサレムは国連の信託下に置かれ、国際化された飛び地とする。」

    こうしてパレスチナ分割と、ユダヤ人国家創設への国際体制が、国連を場として形成され、遂に1948年5月14日、パレスチナの地にユダヤ人国家「イスラエル」が建国されたのである。

    6. 対立から和平へ(その1)>>

    5. 対立の激化(その4)

    <<5. 対立の激化(その3)

    「アラブ高級委員会」の成立と共に、民衆の武装反乱が起きた。彼らは、ユダヤ人の移民の即時停止、アラブの土地のユダヤ人への移譲禁止、代議制に基づく民族的政府の樹立を要求したが、イギリス政府によって鎮圧されてしまった。

    イギリス政府は、その直後にパレスチナの3分割、つまりユダヤ人国家、アラブ人国家、イギリス行政区の3つに分けることを指針としたピール案を提示した。

    アラブ高級委員会は、これを当然否決したが、イギリスの徹底した武力弾圧によって敗北した。これにより、アラブ人勢力は武装解除、政治組織の解体の危機にさらされた。

    1939年5月、イギリス政府は、パレスチナ問題白書を提示した。その内容は、10年以内にパレスチナ国家を建設すること、もう一方は何と将来的にユダヤ移民の受け入れを打ち切ること、ユダヤ人の土地所有に制限を与えることであった。

    このことは、建国を目前にしたシオニストにとってはショックなことだった。

    5. 対立の激化(その5)>>

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    5. 対立の激化(その3)

    <<5. 対立の激化(その2)

    こうなると、以前から住んでいたアラブ人にとっては、パレスチナ建国は不利益なことでしかなく、日増しに不満が高まり、遂には1929年8月のパレスチナ全土に及ぶアラブ人のユダヤ人襲撃事件に発展した。

    これに対してユダヤ人も、ユダヤ人所有の企業や果樹園から、アラブ労働者を締め出すピケット運動を行った。

    また、この頃からユダヤ人の非合法移民も盛んに行われた。

    特に、1933?1936年の東欧からの移民増加により、人口が急増した。原因はナチ政権の成立である。こうしてパレスチナにおける、ユダヤ人勢力は異常かつ急激に拡大し、彼らの侵略的とも言える植民活動によって、パレスチナのアラブ人社会は解体の危機にまでさらされた。見方を変えると、ナチ体制のもたらした犠牲の最終的なしわ寄せをうけた最大の被害者は、パレスチナに住むアラブ民族であったわけである。

    ユダヤ人の支配的体制の中で、アラブ労働者は、極端な差別賃金、選択的臨時雇用、暴力ピケによって排除され、またアラブ農民も土地を奪われて住むべきところを失った。 これらの一連の出来事に対し、1936年、遂に「アラブ蜂起」が起こった。

    5. 対立の激化(その4)>>

    5. 対立の激化(その2)

    <<5. 対立の激化(その1)

    1921年のカイロ会議で、パレスチナは2分されることが決定した。東西に分割し、東はトランスヨルダンとしてアラブ人国家にし、西側をパレスチナとした。

    こうして初めて、ユダヤ人国家が明確な範囲で地理的に位置づけられた。シオニストたちもこれに対応して、ユダヤ人代表機関を設立し、主として入植管理を行うことになった。

    ここで大きな問題が発生した。

    このユダヤ人国家建設予定地であるパレスチナ内に住む人々も、同時に「パレスチナ人」となってしまったのだ。つまり、アラブ民族であっても西側に住んでいた人たちはパレスチナ人となったのである。

    この事実こそが、後々のアラブ諸国とイスラエルの対立を激化させる最大の要因であったと私は考える。

    1920年代末になると、各地からのユダヤ移民が増え、ユダヤ人による農地の占拠が進み、アラブ農民は離村に追い込まれた。この頃から、対立の構図が少しずつ変わり始めた。今までの歴史を見る限り、ユダヤ民族とアラブ民族の対立は、宗教的際が原因であったはずである。

    ところが、この頃のパレスチナではアラブ民族であるために迫害されるようになってしまったのである。たとえ、ユダヤ教徒であったとしてもである。 こうして、宗教的対立から、民族間の対立へと変化していくのである。

    5. 対立の激化(その3)>>

    5. 対立の激化(その1)

    <<4. シオニズム運動(その2)

    第一次世界大戦で、オスマントルコが敗れたために、その旧植民地は主要連合国の委任統治領となっていた。

    1917年11月2日、英国政府によりバルフォア宣言が発表された。内容は次の通りである。

    「英政府が、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を創ることに同意、そのための最善の努力を払う。」

    しかし、この宣言が発表される前に、イギリスの有力ユダヤ人たちは反対した。

    それは、この宣言のために各国のユダヤ人が築き上げてきた権利、地位を脅かし、反ユダヤ主義を増長することが考えられたためであり、また現在パレスチナにいる住民(アラブ人)の反対が考えられたためである。

    とはいえ、この宣言によってシオニズム運動は当初の目的通り、強国政府に公式に認められたのである。

    また、イギリスは、バルフォア宣言によって、オスマントルコの旧植民地のうちの「パレスチナ」の統治を行うことになった。見方を変えれば、イギリスはシオニズムを利用したお陰でパレスチナを獲得したことになるのである。

    5. 対立の激化(その2)>>

    4. シオニズム運動(その2)

    <<4. シオニズム運動(その1)

    シオニズム運動は、当初各地のユダヤ人社会からはあまり受け入れられなかった。その理由は次の2つである。

    1つ目は、シオニズム運動の展開によって、反ユダヤ主義の反発を一層強める危険があったことである。

    2つ目は、宗教的見解として、人の営為としての殖民、国家形成が「解決」であり「救い」であるとする、シオニズムの考え方に対し、ユダヤ教の立場から、「これこそが人の計画をもって神の計画に変えようとする人間の傲慢な思い上がりであり、冒心的な態度である」と考えたことである。

    2つ目の理由により、少なくとも宗教的を満たさなければ、シオニズムは成功しないと考えるようになった。当時ユダヤ人国家の建設地をウガンダの地へ変えようという動きが「地域主義者」と呼ばれる人たちの中であったのだが、2つ目の理由のために棄却された。

    よって、シオニズム運動の方向も、宗教的理由から、当然パレスチナの地へと向けられるようになった。

    5. 対立の激化(その1)>>

    4. シオニズム運動(その1)

    <<3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その3)

    これまでの歴史を振り返ってきたが、未だにユダヤ人とアラブ人のあれほどの対立の原因はわからない。ユダヤ人対アラブ人よりもむしろ、キリスト教徒とイスラム教徒の対立と言った方がよいのかもしれないが。。。

    では、さらに続きを見てみよう。

    1897年8月30日、スイスのバーゼルで第一回シオニスト会議が開かれ、世界シオニスト機構が設立された。シオニズムの目的は、「ユダヤ人がその故地パレスチナに祖国を再建すること」であるが、この頃の時代背景を考えれば、「ユダヤ人のためにパレスチナに公法で保障された郷土を創設すること」であり、さらに言い換えると「強国の支持の元、ユダヤ民族主義と作り出し、国際的な殖民運動を組織する」という意味である。

    残念ながら、当時では、帝国主義に頼ったこのような形でしか、ユダヤ人国家再建という目的は達成できない現状だったのである。

    4. シオニズム運動(その2)>>

    3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その3)

    <<3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その2)

    マムルーク朝時代は、十字軍の来攻を恐れて港湾を閉鎖してしまったために、海外貿易は閉ざされ、経済は停滞し、国の衰退と共に聖地も荒廃していった。マムルーク朝は、その頃勢力を伸ばしつつあったオスマントルコに敗北し、聖地支配もオスマントルコの手に渡った。オスマントルコの最盛期は、1520?1566年のスレイマン荘麗王時代である。

    そして、この頃になってようやく、ユダヤ人社会を取り巻く環境も改善され始めた。

    人口も北アフリカやヨーロッパのユダヤ人が移住してきたために確実に増え始めた。ガラリア地方のツファットでは、特に立法研究地として栄え、ユダヤ教の経典であるシュルハン・アルーフの編纂などが行われた。

    しかし、オスマントルコの衰退と共に、18世紀末に荒廃してしまった。

    聖地エルサレムは19世紀に入り、再びヨーロッパの進出期を迎えた。英・米・仏・露・オーストリアの領事館が開設され、定期便も就航し、電信・郵便制度の発展、スエズ運河の開通など、目覚しいものであった。

    ユダヤ人社会も環境が改善され、移住者の流入によって人口が増加し、市街地も建設された。

    4. シオニズム運動(その1)>>

    3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その2)

    <<3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その1)

    時は流れ、十字軍の時代となった。十字軍とは、1096年から始まった7回に及ぶ遠征で、主な目的は聖地パレスチナ、殊にイエスの墓のあるエルサレムのイスラム教徒からの奪回であった。

    第一陣は、いわば狂信的暴徒集団であった。ライン川流域のユダヤ人を虐殺しつつ、聖地を目指したもののトルコ軍によって破滅した。

    本隊は、1099年に聖地へ到達し、エルサレムを占領、20,000?30,000人の住民を虐殺した。十字軍は聖地にエルサレム王国を建立し、十字軍が聖地を支配したために、その頃からヨーロッパのキリスト教徒の往来が盛んになった。

    これにより、聖地はアラブ人の手からキリスト教徒の支配へと変わったのである。

    200年以上も聖地を支配し続けた十字軍ではあったが、その十字軍も遂にはイスラム教徒を率いたマムルーク軍に破れ、キリスト教による聖地支配も終わりを告げた。

    3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その3)>>

    3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その1)

    <<2. ユダヤの歴史(その2)

    このパレスチナの地に、初めてアラブ人が現れたのは、632年のことである。アラブ人は先述の通り、ユダヤ人と同じセム族に属し、主として回教を信仰していた。

    アラブ人が来訪した当初は、ユダヤ人、キリスト教徒との共存共栄を目指したが、717年にオマル2世が権力を握ったときから、少しずつその関係が崩れていった。

    アラブ人とユダヤ人の間に対立が生まれたのは、たぶんこの頃からである。このときはまだ、単なる宗教の相違による対立でしかなかった。

    オマル2世は、すべての教徒にターバンの着用を義務づけ、ターバンの種類によって属している宗教を見分けようとした。たとえば、キリスト教は白色のターバン、イスラム教は青色・・・という形である。

    また、キリスト教の聖墳墓を破壊し、さらにはユダヤ教徒、キリスト教徒にイスラム教への改宗命令を発したのである(改宗命令は後に撤回された)。

    この時から、ユダヤ人はディンミ(非保護民)として生きることになり、また非イスラム教徒のために重い土地税がかけられ、せっかく戻りつつあったユダヤ人社会は、このような社会的、経済的差別によって急速に縮小していった。

    3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その2)>>

    2. ユダヤの歴史(その2)

    <<2. ユダヤの歴史(その1)

    紀元後132?135年に起こしたユダヤ人の大反乱を、ローマ帝国に鎮圧された時から、彼らは政治的独立を喪失し、追放の身となった。これから後、ユダヤ人は疎外され、差別、迫害を受ける生活を送ることになる。

    「流浪・離散」を意味するディアスポラ・ガルートという言葉が、その後2000年近くユダヤ人を取り巻く環境の代名詞となった。

    こうしてユダヤ人国家が滅んだ後、1948年のイスラエル建国まで、ユダヤ人国家というものは一度も成立することはなかったのである。

    3. アラブ人の来訪とパレスチナの動き(その1)>>

    2. ユダヤの歴史(その1)

    <<1. 古代ユダヤ教の成立(その3)

    ユダヤの部族を統一し、初めて王となったのが「ダビデ」である。エルサレムを首都とし、近隣諸国と友好関係を結んだ。ダビデの後を継いだ息子の「ソロモン」は、ユダヤ教の神殿を建設し、十戒の石版を納めた聖櫃を安置した。しかし、その後の彼の野心的事業のために不満が高まった。

    ソロモンの死後、反乱が起こり、国が二つに分かれた。北のイスラエル王国と南のユダ王国である。

    しかし、イスラエル王国は紀元前722年にアッシリア軍に征服され、彼らは追放のみとなり、四方八方へと離散した。

    一方、ユダ王国も紀元前586年、バビロニアに征服され捕らえられた。このときから「捕虜時代」を迎えた。しかし、この経験を元に、十戒の思想を基本としたユダヤ教は、独自の思想体系として発展、精神生活を支える大きな柱となった。

    次々と変わる支配の中でも、彼らは頑なまでにユダヤの伝統を守り、自治を勝ち取ろうとした。

    2. ユダヤの歴史(その2)>>

    1. 古代ユダヤ教の成立(その3)

    <<1. 古代ユダヤ教の成立(その2)

    ところが、どういう訳かその頃に10回にも及ぶ天災が起きた。ファラオはその原因がユダヤ民族にあると考えた。彼らがいるからこそ、エジプトに不幸をもたらすのだと考え、遂にユダヤ民族に出国を許した。

    奴隷となって実に400年、ついに彼らは自由の身となった。しかし、直後にファラオが心変わりし、軍勢を差し向けて追撃してきた。ユダヤ民族は必死に逃げたものの、海にたどり着いてしまい、逃げ場を失ったかに見えた。しかし、そこで奇跡が起こった。「十戒」の中に出てくる

    海が二つに割れて・・・・

    というシーンである。

    このお陰でエジプト軍からは逃れたものの、苦難は続いた。今度は砂漠を彷徨い、最初は指導者を信じてついて来た人々も次第に不満が高まっていった。その不満が頂点に達する頃、地上に「神」が現れた。神は言った。

    「ユダヤの民が、精神的指針となっていた十戒を遵守することと交換に、私はユダヤの民を守り、イスラエルの地なる領土を約束する。」

    と。ここにおいて、初めて神と人間の間の契約が交わされた。原始ユダヤ教の誕生である。

    2. ユダヤの歴史(その1)>>

    1. 古代ユダヤ教の成立(その2)

    <<1. 古代ユダヤ教の成立(その1)

    族長の位は、アブラハムからその子供へ、子供から孫へと受け継がれた。

    代々の族長は現在のエルサレム南方のヘブロンにあるアクペラの洞穴に葬られた。シュケムとアクペラは、その頃からユダヤ民族の聖所となった。

    時が経ち、ユダヤ民族はカナンからエジプトへ移住した。飢饉があったためである。

    ナイルデルタの東方のゴシェンに到着したのだが、当時エジプト一帯を支配していた国の領土だったため、彼らは捕まり、奴隷として生きることになった。

    その奴隷生活は実に長期に及んだ。その頃ユダヤの民の中にモーゼという指導者が現れ、彼に率いられたユダヤ民族は支配者であるファラオから逃れようとした。

    しかし、ファラオは、ユダヤ民族の「エジプトを出てカナンに戻りたい」という願いを決して聞き入れようとはしなかった。

    1. 古代ユダヤ教の成立(その3)>>

    1. 古代ユダヤ教の成立(その1)

    まずは、「ユダヤ民族」の始まりを見てみよう。

    ユダヤ民族の始原は、西セム系の部族である。セム族とは、ハム族、アリアン族と共に欧州3大種族のひとつで、西アジア、アラビアおよびアフリカ東北部に住み、セム語に属する言語を用いる部族の総称である。

    アラビア人、エチオピア人、ユダヤ人などを含み、ユダヤ教、キリスト教、回教の期限はすべてこの部族に帰する。

    旧約聖書によるとユダヤ民族(ユダヤ教徒)の歴史解釈は、次に示す通りである。

    西セム系の一部族は、族長のアブラハムに率いられてメソポタミアから西へ移住し、カナンと呼ばれる地へ到達した。

    カナンとは、旧約聖書で「楽土・理想郷」という意味で、現在のパレスチナ西部地方である。

    アブラハムは、カナンで土地を買い、そこに定住することにした(現在のエルサレム北方のシュケム)。

    1. 古代ユダヤ教の成立(その2)>>